みなさまこんにちは、ピナレロです。
皆さんは友達多いですか?
私は少ないです。
基本的に人付き合いが下手です。
それでいて寂しがりやなので人に相手にしてもらいたいやっかいなタイプです、
大勢のグループの中にいるとき、溶け込みたくても溶け込むことができずに、どうしたらいいのかわからなくなってしまい。とても苦しくなります。
背中がぞっとしていたたまれなくなるくらいです。逃げ出したくなるときもあります。そして、皆とわかれて家に帰るとほっとします。
溶け込みたくても溶け込むことができずに、孤独感を感じている心理状況を他人にしられたくないんです。
こころの底を見透かされたくないんですね。
そして、だんだんグループでの集まりなどに出たくなくなります。
クラス会にでたくないのはなぜか
この3月にもクラス会のお誘いがありました。
中学の時のクラス会で、もう40年もたつのにまだ続いていて、たまにでるのですが、やはりあまり楽しいとは思わないですが、やはり郷愁の想いがあり出席していました。そしていつも、出席すると後悔するのです。
クラス会に出席してもどのように振舞っていいかわからないんです。今の自分に自信がないのでしょう。みじめな気持ちにもなってしまいます。
というのは、私は学歴は良いのですが会社はほぼ底辺の会社なので、学生時代の友人にあっても、なんかバカにされている感じを受けるのです。
やはり、昔の友人も現在のステータスで見るのでしょうね。というか自分がそうだから人もそうだと考えるのでしょう。自分が肩書で他人をみるから、他人もそうだと感じるのでしょうね。
ここをなんとかしなければいけませんね。肩書にとらわれていることが、自分の苦しみであり孤独感の原因なんだと、気づかされます。
肩書にとらわれている自分がいた
肩書で他人をみる。
他人を能力だけでみる。
自分にとっての損得だけで見る。
自分と比べて優れているか劣っているかで見る。
優れていれば劣等感を感じ。劣っていれば優越感を感じる。
歳とともに、だんだん劣等感のほうが多くなるのは、自分が成長していないからでしょう。
肩書にとらわれているから不幸なのではないか?なんて考えます。逆に肩書にとらわれなければ、もっと幸せな人生まっているのか?
自分の妻をみると、あまり肩書にとらわれていないなと感じます。こんな私と結婚したのですから。
でもなぜか幸せそうです。
持病もあるのに、なにか余裕があります。
妻の話で失礼しました。
肩書を大事にするという風潮は日本の教育のせいでもありますよね?大きな会社に勤務する人は偉いんだ。とか学歴が高いのが偉いんだ。と植え付けられるのが日本の教育です。
例えば、会社を定年退職したときの喪失感は肩書がはずれたことによって、喪失感で自分がどうしてよいのかわからなくなるというのはよく聞く話です。
肩書に縛られてしまうと、その枠からはずれたときに世の中から必要とされていないのではないかというネガティブな思考におちいってしまいます。自分が本当にやりたいことは何なのかを考えていないと、このようなことになるのでしょう。
そうならないために肩書を守るために必死になる。自分が会社から必要とされるため、肩書を守るための防護策として他人に対しての冷たさや意固地な態度、たこつぼ人生となってくるのでしょう。
幸せの価値基準は自分できめる
人は無職という言葉のイメージを嫌います。なんとなく不安なイメージを抱きますよね。
無職とかニートになりたくないから肩書を必死に守る。このことが自分を不幸にしてしまう。
でも、これから時代がかわります。
個人が一人でパソコン一つでインターネットを使って稼げる時代になります。
肩書なんかただの思い込みになる時代がきます。
そう、価値観の変動する時代がくるのです。
大事なのは時代の変化に今から対応することです。終身雇用の時代が終わりつつあります。そんな時、肩書にとらわれている場合ではないです。少しずつでも学びを始めることが大事ですね。
肩書がないのが不安であれば、自己イメージを高めるために肩書を勝手につくればどうでしょう。無職といえばイメージが悪いですが、○○研究所所長などといえばかっこいいではないですか。
無職だが生活費を稼ぐだけの所得があり、しかも自分の自由になる時間がたっぷりある。1日3,4時間だけそれ以上は働かない。そして病気にもならず、幸せです。理想ではないですか。
病気になって働きたくても働けないことは本当に不幸なことだと思います。でもそうではなくて健康でなにかやろうとしているならそれは単なるニートではないですよね。
世間がなんといおうと、自分が幸せであることが大事ですよね。
幸せの価値基準は人が決めるのではなく自分で決めるということを肝に銘じましょう。
自由な思考をもち、本来の自分のやりたいことはなんだろうと考えてみることが大事なんですね。