実は私、オーラが見えます。
より正確には、「オーラ“らしきもの”」と言うべきなのでしょうか。情けないことに、自分の見ているものに確証を持てません。
今でも少し、目の錯覚や精神疾患の可能性を捨て切れていないのです。
オーラらしきものが見える
“それ”が見えるようになったのは、中学生の頃でした。当時、あるスピリチュアル小説がラジオドラマ化され、深夜に毎日少しずつ、連続形式で放送されていました。
物語の不思議さに心奪われたというのもあり、原作本を購入。その中に、「オーラを見るための練習法」が書かれており、見えたら面白いだろうなという、とても軽い気持ちで試してみたのですが……。
数週間もしない内に、もやもやと光るものが、指の周りに見えるようになりました。最初は淡く白いものでしたが、次第に色を帯びていくように。
その頃の自分の指先は、内側が紫色、外側が黄緑色という配色でした。今は、濃い青紫色に変わってしまいました。とはいえ、どういった理屈で変色するのかさえ、私にはよく解りません。
オーラを食いちぎられた
中学生の頃の私は、その奇妙な体験が楽しくなってしまい、段々、見える範囲を広げて行きました。他の人の周囲も見えるか確かめ、自分の見えているその「色つきの光るもやもや」を、もっと見たいと願うようになりました。
私には当時、癌を患っていた友人がいました。彼の治療に尽力したという、霊能力者の女性の講演会へ行った際、壇上に立った彼女の周囲が純白に見えました。
また、客席から細い光の筋のようなものが彼女に向かって伸びて行き、まるでそれを受け取ったかのように、純白の光が強くなる……という、実に奇妙な光景を目の当たりにしました。
あるいは、オーラ“らしきもの”の見方を教えた結果、「あ、これがオーラなのか!」と、見えるようになった友人もいました。
帰宅途中、全く見知らぬ人に後ろから拳で殴られたことがあったのですが、その殴った相手を振り返って見た際、その人物の周囲は赤黒く見えました。
しかも、彼のその赤黒いものが、大口を開けたワニのような形に変じ、私のオーラ“らしきもの”を、ごっそり食いちぎっていったこともあります。
共感覚と仮設をたてる
気味が悪く恐ろしかったですが、相手は酔っ払いだったようで、
周囲の人達が「何してるんだ! やめろ!」と止めに入ってくれて、結局、事なきを得ましたが……。
そんな気持ちの悪いものも、少しずつ見えるようになってきたのもあり、大人になるに連れて、段々自分の視界が信じられなくなってしまいました。
自分の見ているものは何なのだろう。本当は幻覚なのでは?そう思い、精神科医の診断を受けましたが、統合失調といった病気である可能性は限りなくゼロに近いと言われました。
ある神経にまつわる病気を患っている友人が、こんな仮説を立ててくれました。
それは一種の「共感覚」なのではないか、と。
共感覚というのは、原因は不明ですが、本来は独立した感覚である視覚、聴覚、味覚、嗅覚などが、同時にリンクしてしまう、という不思議な現象です。
ある有名な音楽家の方は、ある音を聞くと赤く感じるのだそうです。これは、視覚と聴覚の神経ネットワークがリンクした結果、ある音とともに、記憶の引き出しから「赤」という色の情報を引き出してしまう訳です。
では、私の場合はどういう共感覚なのでしょうか。元々、私は人の動作や反応の仕方に、子供の頃から敏感でした。
これはもちろん視覚情報ですが、その情報の中に、「この人は怖い人かもしれない」という情報が加わると、危険というイメージの強い「赤」のオーラ“らしきもの”が見え、悪いというイメージからは「黒」のオーラ“らしきもの”として見える……という。
つまり、観察力の中に、色覚が過度に反応している状態なのではないか。……というのが、友人の説でした。
もちろん、科学的にどうやったらそれが証明できるかは解りませんが……。
奇妙な実験を始める
ずっと、この奇妙な視覚を何かに活かせないかと考えてきましたが、実はここ数年で、実験的な試みを続けています。
元々奇妙な収集癖があり、宝石のように色とりどりのサイコロを集めています。
これをボックスケースに入れて、知り合った方にサイコロを選んでもらい、それをプレゼントする……という、これまた奇妙なことをしています。
自分に見えるオーラ“らしきもの”の色と、その人が選んだサイコロの色を見比べ、例えば同系色であれば「あぁ、この人は精神的に安定しているのかも」と判断します。
また、全く違う色を選んだ人には、何故その色を選んだのか、聞いています。
話を聞く限り、自分の現状と願望が食い違っている人は、こちら側から見えるオーラの色と、選ぶサイコロの色が違っていることが多いようです。
マーブル柄のサイコロ(そんなものもあるのです)を選ぶ人は、
特に迷っている人が多いな……などなど。……何だか、不毛な作業ですが、データは積み重ねることが肝心。
随分話が長くなってしまいましたが、
結局のところ、見える本人にも「よく解らない」としかいえないような代物です。
とはいえ、見えるものは見えるものとして受け止めて、いつか正体が解るその日まで、この「目」と付き合って行きたいと思っています。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。